天井の青いシミと中村さん
天井に青いしみができた。
いつからそこにあったのかはわからない。
ある朝、目を覚まして天井を見ていると、白いクロスの中央より少し窓側に、青いものが浮かんでいることに気がついた。水漏れの跡のようにも見えたし、冬の空を薄い紙越しに眺めているようにも見えた。
僕はスマートフォンを向けて、それを配信した。
最初の日に見ていたのは三十人くらいだった。
「水漏れじゃない?」
「カビでしょ」
「青くないよ。グレーじゃん」
そんなコメントが流れた。
僕はそのどれにも答えなかった。
水漏れにしては湿っていなかったし、カビにしては輪郭がなかった。そもそも青いしみというのは、正確な表現ではなかった。
青は白の中から始まり、いつの間にか白へ戻っていた。
境界線がないのだ。
だから人によっては、そこに何もないように見えた。
ある日、僕の配信を有名な配信者が取り上げた。
「あの天井、ちょっと面白いよ」
彼がそう言ったらしく、その翌日から三千人ほどの人が僕の天井を見るようになった。
三千人という人数は、不思議な人数だった。
三千人に見られていても、部屋には僕しかいない。
スマートフォンをテーブルに立て、僕はコーヒーを飲み、たまに煙草を吸った。
コメント欄では青いしみについて議論が続いた。
「昨日より広がっている」
「いや、変わってない」
「右側が濃くなった」
「カメラのホワイトバランスだよ」
「そもそもしみなんてない」
最後の意見には、いつも一定数の賛同者がいた。
存在しないものについて三千人が毎晩話し合うというのは、考えてみるとなかなか奇妙なことだった。
僕はしみを測ろうと思った。
でも天井には手が届かなかった。
部屋には椅子がなかった。
僕は床に座って生活する人間だったし、高いところにあるものを取る必要があれば、たいてい諦めた。
脚立を買えば済む話だった。
でも僕は買わなかった。
測ってしまえば、何かが終わるような気がした。
それに測ったところで、昨日より三センチ広がっていたということに、どんな意味があるのだろう。
配信では、しみの話をする日もあれば、全く関係のない話をする日もあった。
埼玉の冬の風のこと。
スーパーで売られている納豆の種類のこと。
若いころ好きだった男のこと。
東京まで電車で行くと、なぜ帰りだけ遠く感じるのかということ。
それでも画面の上半分には、いつも天井が映っていた。
青いしみは、何も言わずそこにいた。
僕の部屋に実際に入ったことのある人間は少ない。
友人はほとんどいなかったし、配信をしていることから、部屋の場所を知られるのも嫌だった。
青いしみを肉眼で見た人間は、僕のほかには一人しかいなかった。
中村さんというマッサージ師だった。
僕は男が好きだったので、こちらの事情をいちいち説明しなくていい人を探し、中村さんを見つけた。
埼玉では珍しく、家まで来てくれる人だった。
中村さんには霊能力があるという話だった。
正確には本人がそう言ったわけではない。
ホームページの紹介欄に、
「人の気や場所のエネルギーを感じ取ることがあります」
と書かれていた。
僕はその文章を完全には信用していなかった。
世の中には、自分が特別であると思わなければ、生き続けることそのものが少し難しくなる人たちがいる。
中村さんも、その一人なのかもしれなかった。
彼は月に一度か二度、折り畳み式のマットを持ってやってきた。
そして毎回、天井の青いしみについて何も言わなかった。
それが逆に気になった。
霊能力があるなら、こういうものには敏感なのではないか。
でも僕から尋ねることもしなかった。
配信のことを知られたくなかったし、彼の霊能力を認めたように思われるのも嫌だった。
薄暗い部屋でマッサージを受けながら天井を見ると、青はますます曖昧になった。
コンタクトレンズの色が眼球の奥に残っているだけのようにも見えた。
深い海の底から水面を眺めているようにも見えた。
カイロの岩窟教会の天井にも思えたし、空爆で屋根を失った建物から見上げる夜明けの空にも思えた。
見る側が何を持ち込むかによって、それは何にでもなった。
ある夜、僕はとうとう尋ねた。
「中村さん、不思議なことって経験したことありますか?」
僕は自分の話をする前に、彼に何かを話させようとした。
保険のようなものだった。
中村さんは僕の肩を押しながら、しばらく考えた。
「死ぬとき、人間が青い光を出すって話、知ってます?」
「知らないです」
「僕も気になって調べたんですよ。でも実際には細胞が出す光はものすごく弱い。目には見えないくらい」
彼は少し間を置いた。
「でもチェレンコフ光っていうのがあるでしょう」
「原子炉の青いやつですか」
「そうそう」
荷電粒子が物質の中を、その物質の中での光より速く進むと光が生じる。
短い波長が強くなるので、人間の目には青や紫が目立って見える。
原子炉の燃料プールの中に浮かぶ、あの非現実的な青。
放射線治療を受けている患者が青い光を見たと報告することもあって、それはチェレンコフ放射や網膜への刺激が関係している可能性がある、と中村さんは説明した。
「つまりね」
と彼は言った。
「ものすごく高いエネルギーが物質を通り抜けると、本当に青い光が出るんですよ」
「それがどうしたんです?」
「いや、この部屋にも物質はいっぱいあるし、エネルギーもいっぱいあるでしょう」
「ありますね」
「何かが通り抜けてるのかもしれない」
僕は笑おうとしたが、うまく笑えなかった。
すると中村さんは手を止めた。
「言ってなかったけどね」
彼は天井を見た。
「あれ、まだあるんですね」
僕も天井を見た。
「見えてたんですか?」
「見えてましたよ」
「どうして何も言わなかったんです?」
「あなたが何も言わないから」
そして中村さんは、とても普通のことを話す口調で言った。
「私、十五年くらい前、この部屋に住んでたんです」
僕は起き上がった。
中村さんは笑った。
「本当に偶然。二年くらい住んで、それから彼氏と暮らすことになって引っ越したんです」
「青いしみは?」
「あったと思う」
「そのころから?」
「うん。たぶん」
「大きさは?」
「覚えてない」
「どうして気にしなかったんです?」
中村さんは肩をすくめた。
「害がなかったからじゃないですか」
それはとても中村さんらしい答えだった。
「十五年ぶりにこの部屋に入って、まだあるなと思った。でも嫌な感じはしなかった。むしろちょっと綺麗だなって」
「僕にも見えてます」
「じゃあ二人には見えてる」
「二人に見えたら、もう錯覚じゃなくて事実ですよね」
中村さんは笑った。
「僕ら二人が正気ならね」
僕らは天井を見た。
「世の中のことって、だいたいそんなものじゃないですか」
彼はまた僕の肩を揉み始めた。
「あると思えばあるし、ないと思えばない。だいたいは錯覚みたいなものですよ」
「中村さんはどうしてマッサージを始めたんですか?」
僕は急に尋ねた。
彼は少し考えた。
「他にやりたいことがなかったからかな」
「夢とかは?」
「あんまりなかったですね。金持ちになりたいとか、人並みに幸せになりたいとか。そういう気持ちが、どこか欠けてたのかもしれない」
「それって、緩慢な自殺みたいですね」
中村さんは声を上げて笑った。
「結構ひどいこと言いますね」
「すみません」
「でも人間なんて、生まれたときから緩慢に死んでるでしょう」
彼は言った。
「ただ、そのことを意識しているかどうかの違いです」
「じゃあ中村さんにとって幸せって何ですか?」
「死ぬことかな」
僕は中村さんの顔を注視した。
「いつか死という完成されたゴールに着くこと」
「生きていて楽しいですか?」
「絶対的には楽しくないでしょう。死刑場に向かう電車に乗ってるんだから」
「ずいぶん暗いですね」
「でも面白いこともありますよ」
「例えば?」
「全員同じ電車に乗ってること」
中村さんは言った。
「金持ちも、美人も、政治家も、配信者も、マッサージ師も、みんな同じ方向に走ってる。それに僕より先に降りる人もいる」
「性格がいいんだか悪いんだかわからないですね」
「よく言われます」
その夜、中村さんが帰ったあと、僕は長いあいだ天井を見ていた。
死について考えることは、生について考えることとほとんど同じなのかもしれなかった。
多くのものが僕の体を通り抜けてきた。
恋人。
親。
仕事。
街。
ニュース。
他人の声。
僕を好きだった人。
僕が好きだったけれど、もう名前さえ思い出せない人。
そのたび、僕の体は目には見えない青い光を放っていたのかもしれない。
そして天井は、それを十五年かけて少しずつ集めたのかもしれない。
原子炉の底に沈んだ夢みたいに。
数か月後、中村さんが突然入院した。
ホームページには、
「しばらく休みます」
とだけ書かれていた。
メールを送ると、癌が見つかったと返信がきた。
僕は羊羹と炭酸水を買い、見舞いに行った。
電車で一時間ほどだった。
埼玉の外れにある、名前を聞いてもどこだかよくわからない町だった。
駅前にはサイゼリヤとSeriaがあった。
坂の上の病院までバスに乗った。
バスには老人と子供しかいなかった。
運転手は決められた手順を一つずつ丁寧にこなしていた。
老人が降りるたび、時間が止まったようになった。
運転手は急かさなかった。
ゆっくりと一人の魂が車外へ移動するのを待つ神官のようだった。
最後には僕と年配の男だけになった。
男が先に降りた。
僕は彼に道を譲った。
病院の廊下には消毒液と古い皮膚の匂いがした。
中村さんは四人部屋の入口近くにいた。
僕を見ると、
「やあ」
と言った。
起き上がる動作は、重い荷物を背負う労働者のようだった。
ひどく痩せていた。
「こんなところまで来てくれたんだね」
「一時間くらいですよ」
僕は言った。
「中村さんもいつも一時間くらいかけて来てくれてたでしょう」
彼は笑った。
僕は炭酸水と羊羹を渡した。
病気のときには炭酸が飲みたくなる。
僕はそれを、世界共通の定理の一つだと思っている。
中村さんは炭酸水を飲みながら、天井の青いしみの話をした。
癌が見つかってから、あの青についてよく考えるようになったらしい。
それまで背景にあったものが、ある日突然、日常の一番前に出てくる。
そのとき人は、以前から見えていたものが未来を予告していたのだと考えるのか。
あるいは、未来を知ったから過去の景色に意味を与えたのか。
「どっちだと思います?」
僕は尋ねた。
中村さんは窓の外を見た。
「どっちとも言えないね」
それだけだった。
三週間後、中村さんは退院した。
癌はひとまず治療できたらしく、これから定期的に検査を受けるという。
電話で、またマッサージをするのかと尋ねた。
電話の向こうで彼は長く黙っていた。
「たぶん、もうしないと思う」
「どうしてです?」
「癌と一緒に、何かがなくなっちゃったんですよ」
「何か?」
「何か」
彼はそれ以上説明しなかった。
そして電話を切る前に言った。
「あの青いしみも、そのうち見えなくなると思う」
「中村さんには?」
「もう見えない」
「僕も?」
「いずれね」
それが彼の霊能力による予言だったのか、ただの思いつきだったのかはわからない。
でも僕にはまだ見えていた。
白い天井の中に、青は薄く浮かんでいた。
それから中村さんは遠くへ引っ越した。
ホームページは閉鎖され、電話番号も使われなくなった。
僕の生活の中から、中村さんの痕跡は少しずつ消えた。
青いしみの配信もやめた。
最後の配信では千二百人ほどが見ていた。
「最近薄くなったね」
というコメントがあった。
「いや、変わってない」
と別の人が書いた。
「最初から何もなかったよ」
という人もいた。
僕は誰にも答えなかった。
数か月後、小包が届いた。
差出人は中村さんだった。
中には見舞い返しのお菓子と、一枚の写真が入っていた。
ラオスらしい場所で、中村さんが象の横に立っていた。
少し太っていた。
日に焼けていて、笑っていた。
象も笑っているように見えた。
写真の裏には、
「まだ途中です」
とだけ書かれていた。
僕は窓を開けた。
埼玉の夜の空気が入ってきた。
煙草に火をつけた。
煙が窓の外へ流れていった。
僕はラオスにいる中村さんのことを考えた。
象のことを考えた。
十五年前のこの部屋のことを考えた。
それから天井を見上げた。
青いしみはまだそこにあった。
少なくとも僕にはそう見えた。
以前より薄いような気もした。
僕は目を閉じた。
目蓋の裏側に青い光が残った。
それが天井の青なのか、網膜の残像なのか、僕自身から出た光なのかはわからなかった。
たぶん、それを知る必要もなかった。
世界には、測るための椅子を持たないほうがいいものがある。
僕は煙草を灰皿に押しつけた。
窓の向こうでは、どこかへ向かう夜の電車が走っていた。
その電車の窓にはいくつもの小さな明かりが並んでいた。
みんな同じ方向に運ばれている。
僕はしばらくそれを見ていた。
そしてもう一度天井を見上げた。
青は白の中にあった。
白もまた、青の中にあった。
©️ 青山直樹 2026

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